教育学の土台にある「人間」を理解するためには。
━━伊藤先生の専門分野について教えてください。
University of Queenslandの共同研究者
専門は社会神経科学、いわゆる脳科学の一分野です。人間同士のコミュニケーションにおける脳とこころの働きを研究しています。「脳科学」や「心理学」などのキーワードが出てくる分野なので、医学的だと捉えられるかもしれません。たしかに、教育学の中でも文理融合の色が強いです。はじめて講義を受ける学生からは、「これが教育とつながるの?」と、戸惑う声もときどき寄せられます。
ですが、こうした分野を学んでおくと、教育学の知識に厚みがでてくるというのが私の考えです。なぜなら、教育とは人間同士の関係性の上に成り立つものだから。人間そのものや、コミュニケーションを理解することが教育学のベースといえます。そして私の研究分野は、脳やこころという側面から人間やコミュニケーションを理解しようとするものです。
イメージしやすい話を挙げます。例えばInstagramやXなどで、自分の投稿にハートマークが押されると嬉しくなりますね。客観的に見ると、ただ「ハートがついた」だけなのですが、私たちは、ハートは「いいね」と思ってもらえた結果だと学習しているので、嬉しくなるのです。
現代は、この「いいね」が社会的報酬の一つといえます。美味しいご飯を食べたり、誰かにほめられたり、金銭をいただいたりするのと同じように、「いいね」も報酬なのです。このとき、脳やこころはどのようなプロセスをたどって、報酬だと判断しているのでしょうか。こうしたメカニズムを探るのも私の研究分野です。
科学的に“相性”を予測することはできるのか。
━━具体的には、どのような研究をされていますか?
今進めている研究は、印象形成や印象予想などに関する脳活動です。例えば、誰かとコミュニケーションをしていると、この人は話しやすい、逆に話しにくいなど、さまざまな印象を持つと思います。こうした印象は、私たちの脳の中でどのように形成されるのでしょうか。そのメカニズムを調べています。
また、相手から自分はどう思われているのだろう?と思うこともあるはずで、この印象予想のプロセスについても研究中です。
研究には、MRI(磁気共鳴画像法)を使うこともあります。MRIといえば、骨や内臓、脳の形・構造を見るときに使うイメージだと思いますが、特殊な 撮影の仕方(脳の血流動態の変化が起こった領域をMRIで捉えることで、脳の活動領域を可視化するもの)にすることで、構造ではなく脳の働きを見ることもできるのです。また、スピードデイティングといって、複数人の協力者に集まっていただき、一対一の会話を短時間で次々と繰り広げていくという研究手法もあります。
事前に参加者の脳の特性を調べておき、相性を予測できないかという研究です。我々のグループでは安静にしているときの脳活動に着目しています。もちろん、100%の精度は出せませんし今後のさらなる検証が必要ですが、統計学的には一応有意であることを報告しています。
まだまだ検証を積み重ねる必要がありますが、将来こうした脳機能を読み取ることで運命の赤い糸を予測できるようになったら面白いと思っています。一口に“相性”といっても、先生と生徒の相性、医療従事者と患者の相性など、さまざまな関係性があります。人間関係に悩みを抱える人が少しでも減らせたら素晴らしいと思っています。
━━伊藤先生の研究分野は、社会の中のどのような場面で生かされていますか?
現在、高齢者の孤独・孤立問題に取り組んでいます。「コミュニティー・シェッド(小屋)」という高齢者のための居場所づくりです。大きな特徴は、専門家や支援者の手をなるべく借りずに、自分たちで立ち上げから運営、助成金の獲得までを行っていく居場所であることです。こうすることで、参加者は生きがい・やりがいを持ちやすくなります。世界に3,700カ所以上のシェッドがあり、利用者は10万人超といわれています。オーストラリアで1990年代前半に始まった取り組みですが、イギリスやアメリカ、カナダなど多くの国で急速に広まっています。
現在、このコミュニティー・シェッドを日本で拡大する取り組みを進めているのですが、孤独・孤立の予防に効果があるのか、科学的なエビデンスはまだ乏しいのが現状です。そこで、心理学や脳科学、作業療法のテクニック、インタビュー調査など、各分野の研究者と協力して、多角的な視点から効果を分析しています。エビデンスをしっかり示すことで、孤独・孤立の予防に貢献していきたいです。まだ始まったばかりの取り組みですが、将来的には世代間交流の促進や災害レジリエンスの向上にもつながるのではないかと期待しています。
小論文の面白さに気づいて自信が芽生えた。
━━学生時代のお話を伺いたいと思います。大学受験はどのように取り組まれましたか。
JST-RISTEX総括
正直、高校時代の成績はあまり褒められたものではありません。当時は、バドミントン部の練習に没頭していました。部活に関してはモチベーション高く努力していましたが、勉強に関しては、モチベーションをどこに向けたら良いのかわからず意識が低かったです。入学当初は学年でそこそこ上位だった成績が、一気に200番台、300番台と転がり落ちていきました。もちろん受験もうまくいくはずがなく、浪人生活に突入しました。
浪人生活を始めてしばらくすると、自由な時間があればあるだけ怠けてしまう性格が顔を出し始め、浪人生活は向いていないことを悟りました。志望を北海道大学医学部に定め、短期集中で勝負しました。医学部を選んだのは、漠然と人に興味があったからです。安易ですが、経済、法律、医学などのおおまかなジャンル分けをしたときに、人と関わる仕事なら医学だと思ったのです。
受験勉強の転機となったのは、小論文対策の先生との出会いでした。とにかく授業が面白くて、文章を書くことの面白さに気づくことができました。あるとき、私が書いた文章を先生が皆の前で褒めてくださったことがありました。自分がポジティブな印象を抱いている人から、ポジティブな言葉をかけてもらったという相乗効果で、一気にやる気につながったのを覚えています。おかげで小論文の成績は抜群に良くなり、全国模試で4番になったことも。最終的に、小論文試験のあった北海道大学医学部保健学科に合格することができました。
当時を振り返って、受験生の皆さんにアドバイスできることがあるとすれば、新書を読むことです。私は予備校時代、新書を読んでその内容をまとめる作業をしていました。もともと国語は苦手でしたが、このまとめ作業を繰り返すうちに、内容を整理する力がついたように思います。イメージとしては、まずは頭の中に情報を発散させて、それを条件に合わせて収束させる感じです。例えば、セクションごとに区切り、ここでは何が言いたいのかをまとめてみる。こうしたポイントを押さえる訓練を重ねると、国語以外のあらゆる場面で役に立ちます。社会において優秀な人というのは、物事の肝となるポイントを見つける嗅覚が鋭い人のように思います。その嗅覚を鍛える方法のひとつが、新書のまとめ作業です。ぜひ今のうちからやってみてください。
本気で研究者の道を志した先輩方との出会い。
━━医学部保健学科から、現在の脳科学の分野を専攻するようになった経緯を教えてください。
内閣官房孤独・孤立対策担当室(現、内閣府孤独・孤立対策推進室)との打ち合わせの様子
入学した北海道大学医学部保健学科作業療法学専攻は、作業療法士の資格を取得できる学科です。履修科目が多く、長期の病院実習もあり、それが終わると卒論にとりかかるという忙しさ。国家試験もパスする必要があります。いざ就職活動をするとなったとき、自分には病院に就職するのも民間企業で働くのも合わないと感じ、研究に没頭できる大学院進学を選びました。東北大学大学院を志望したのは、大学時代の恩師からのすすめがきっかけです。
試験を受けて無事に入学してからは、卒論からの流れで視覚認知の障害を持った患者さんについて研究していました。ですが、MRIを使って研究していた先生や先輩方から話を聞いているうちに、健常者の脳機能について調べる分野に興味が出てきたのです。指導教員の先生に相談し、そちらの分野を切り替えていきました。
私が本気で勉学に取り組むようになったのは、この頃からです。なにしろ、先生や先輩方は目玉が飛び出るほど頭が良い。その上、常に限界を超えるような努力をしていて、英語の論文なども非常にうまく書くのです。そして極めつけは、遊びも全力だということ。麻雀なら勝てると思っていた私ですが、これも歯が立ちませんでした。すべてにおいて、自分は井の中の蛙だったと気付かされ、そこからは自分も先輩たちみたいになりたいと、ハッキリとした目標ができました。
目標ができたのは良かったのですが、実力が伴っておらず、理解が追い付かなかったり英語の壁にぶち当たったりと、頑張らなければならないことが山のようにありました。修士1年のときに受けたTOEICの点数は500点台。そこから次のテストまでの3カ月間、猛勉強し、3日で1800個の単語を覚えるほど集中して取り組みました。単語を覚えるコツは、インプットよりもアウトプットを多くすることだと思います。暗記用の赤シートを使って、繰り返し、ひたすら自分をテストするのです。こうして集中的に勉強し、2回目のTOEICでは770点まで点数が伸びました。
院生時代、特に印象に残っているのは博士3年のときにチャレンジした「日本学術振興会」の特別研究員制度(通称、学振PD)です。簡単に説明すると、優れた若手の研究者に給料や研究費を出してくれる制度。お金をいただくわけですから、簡単には採用されません 。当時はたしか、採択率10%台と非常に狭き門だったので、選考に必要な書類を必死で執筆しました。日々自分の限界との戦いで、どうすれば審査員の方々に納得してもらえる書類になるだろうかと試行錯誤を続けました。そんなある日、朝から嘔吐してしまったんです。疲れやプレッシャーがあったのだと思います。尊敬する先輩に話すと「自分も経験したことがある」と、同じ道をたどっていたことがわかりました。きっと今が勝負所で、ここで踏ん張れるかどうかが研究者としての未来を左右すると思ったのです。結果、無事に採用され 京都大学で働くこととなり、それまで以上に研究に専念できるようになりました。
100%をあと1%でも超えようとする気持ちが未来を変える。
━━伊藤先生のこれまでのご経験から、受験を控えている学生の方に向けて伝えたいメッセージをお聞かせください。
昔の私は、努力することは格好悪いという青臭い考えを持っていました。ですが東北大学大学院に進学して、ものすごく頭の良い人たちがなおも努力している姿を見て、考えがガラッと変わったのです。携帯電話の充電器は、家に置かず研究室にだけ置くようにして、毎日研究室に通いながら必死に勉強しました。必然的に携帯を触る時間が減るので、勉強に集中したいときにはおすすめです。今でも通知は全てオフにして、なるべく集中を切らさないようにしています。
最近になって、こうした努力を言語化できるようになったのですが、「100%を超える」意識が大事なのだと思います。例えば書類や論文を書いたりする際、98%の完成度と105%の完成度は、たった7%の違いしかありません。ですが、98%の内容は予想の範囲内であるのに対して、105%の方は相手を「お!」と驚かせるものになるのです。研究者の間では、あと一歩の研究内容のことを「ナイーブ」と呼び、もったいないと表現することがあります。私も、もったいないという気持ちを持つようになってから、100%をあと1%でもいいから超えるよう意識するようになりました。他人と比べるのではなく、今の自分の限界を超える気持ちが、成果につながると思います。101%生活を続けていくと、知らないうちに見える景色が変わってくるはずです。
最後に、教育学に興味を持っている皆さんには、ぜひ東北大学教育学部の「懐の深さ」を感じていただきたいです。私のような理系出身の学びも、教育学のアプローチに役立てることができます。人間や社会を理解し、そして貢献することに興味がある方なら、何かしら琴線に触れる学びが得られるでしょう。文系理系問わず、ぜひ飛び込んできてほしいです。
天才たちの日課
—クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々
著者:金原 瑞人
出版社:フィルムアート社
発行:2014年12月15日
おすすめコメント:世界的の偉人たちは、どのような日常を過ごしているのでしょう。ヘミングウェイ、ベートーヴェン、村上春樹など161人の天才たちのルーティンをまとめた本です。多くの天才は、意外と地味で単調な日々を送る中でコツコツと努力をしていて、その積み重ねが成果につながっているケースが多いとわかります。バリエーション豊かな実例を通して、物事に取り組む姿勢が学べる一冊です。
Profile
伊藤 文人ITO Ayahito
北海道札幌西高等学校卒。北海道大学医学部保健学科で学んだ後、2008年に東北大学大学院医学系研究科に進学。2013年に同博士後期課程修了。
その後、京都大学こころの未来研究センター(学振PD)や、イギリスのヨーク大学心理学部・サウサンプトン大学心理学部(学振海外特別研究員)などを経て、2023年4月より現職。
令和6年度科学技術分野の文部科学大臣表彰若手科学者賞(業績名:ヒトの社会的相互作用を支える認知神経基盤の研究)などを受賞。
博士論文:「Neural correlates of execution and preparation of deception」
修士論文:「他者からの社会的評価により惹起される快・不快感情に関わる神経基盤の検討:PETによる脳機能画像研究」
卒業論文:「統覚型視覚性失認における視機能の検討」